折原浩訳の問題点(143)

「夫婦間の自慰」という謎の誤訳。Onanismusは「自慰」ではなく、創世記38に出て来るオナンが、レヴィレート婚(兄が死んだ場合に弟が寡婦となった兄の妻と結婚すること)で元の兄の妻と結婚したのに、子供が産まれても自分のではなく兄の子とされるのを嫌って、精液を地に流したということです。「子供は二人まで」という産児制限のための避妊の話です。
ここも約20ページ前に「フランスでは時折、聖職者達が「子供は二人まで」というやり方に対して、利子禁止と同じような取扱いをして認めるべきだという扇動を行った。」という風に既に論じられています。

原文
Dem ebenso verpönten »Onanismus matrimonialis« (Zweikindersystem) dürfte es ebenso ergehen.

折原訳
同じように厳禁されていた「夫婦間の自慰」(二児制) についても、事態は同様に推移したにちがいない。

丸山訳
同様に厳禁されていた「夫婦間での避妊[1] [Onanismus matrimonialis]」(子供は二人までというやり方)においても、同様の処置が取られたのかもしれない[2]

[1] 参考:創世記 38:9「オナンはその子孫が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入る度に子種を地面に流した。」

[2] この内容も既にP.239にて論じられている。

折原浩訳の問題点(142)

ここもまたデコトラ翻訳の典型例。原文は特に複雑なことを言っている訳ではなく、宗教的な命令と経済上の様々な要求を矛盾なく処理するのに3つのやり方、つまり解釈を変える、決疑論的に違反していい場合を作る、実践において無かったことにする、というのがある、と言っているだけです。3つしかないのにわざわざ番号を付けるのは何故かと思います。しかも色々補っていることが勝手な解釈で、間違ってもいます。「利子禁止」はイエスの教えというよりモーセの律法で、ユダヤ教からキリスト教に引き継がれたものです。「[この [3] に類する] 後述のやり方」、も意味不明で、後述は利子禁止が実質的に廃止されるやり方を説明するだけのものの筈です。(実際は後述ではなく、既にこの点はかなり詳しく論じられており、ここのヴェーバーの記述は意味不明。おそらく書かれた順番が今回の箇所の方が先だった可能性あり。)「ただ運用において、実質上廃棄に等しい無効化を達成した」もどこにそんなことが書いてあるの、と思います。

原文
Die Bedürfnisse des ökonomischen Lebens machen sich entweder durch Umdeutung der heiligen Gebote geltend oder durch ihre kasuistisch motivierte Umgehung, zuweilen auch durch einfache praktische Beseitigung, im Wege der Praxis der geistlichen Buß- und Gnadenjurisdiktion, die z.B. innerhalb der katholischen Kirche eine so wichtige Bestimmung wie das Zinsverbot in bald zu erwähnender Weise auch in foro conscientiae völlig ausgeschaltet hat, ohne es doch — was unmöglich gewesen wäre — ausdrücklich zu abrogieren.

折原訳
経済生活の諸欲求が貫徹されるのは、[1]聖なる命令を解釈替えすることによって、あるいは[2]聖なる命令を回避してよい場合を、決疑論的に確定しておくことによって、あるいはまた、ときとしては [3] 聖職者が告解を聴聞して恩恵を分与する管轄権の行使にあたり、当の命令違反は不問に付し、実践上は直截な除外に等しい効果を達成することによって、なされる。たとえば、カトリック教会の内部では、利子取得禁止令のように重大な規定が、[この [3] に類する] 後述のやり方で、 良心の法廷においても、完全に排除された。そのさい、規定そのものの公然たる廃棄は [聖書に明文をもって記されているイエスの教えに抵触するので]不可能であったろうから、そうはせずに、ただ運用において、実質上廃棄に等しい無効化を達成したわけである。

丸山訳
経済的な生の諸要求が満たされるのは次のどれかによってである。つまり神聖な諸命令として見なされているものの新たな解釈によってか、あるいはそういった諸命令の決疑論的に動機づけられた違背によってか、時にはまた単純に実践的にはその命令を無かったことにすることによってかであり、最後の場合は霊的な悔い改めと恵みの管轄権の実践の中で行われるのであり、その管轄権は例えば、カトリック教会の内部では、利子禁止のようなある非常に重要な既定を、このすぐ後で言及するようなやり方で、良心の法廷においては[in foro conscientiae]完全に除外したのであり、しかしその場合でも、--それは不可能であったであろうから--明示的に廃止することなく行われた。

折原浩訳の問題点(141)

まあここは誤訳というのは少し可哀想ですが、interessiertを「関心を寄せる」と訳すのは弱すぎます。要するに規範を犯す者を放置すると、神の怒りを招き自分達にそのとばっちりが来るということを言っているのであり、興味・関心を持つというレベルではなく「利害に関わる」であるのは明らかです。
それから「侵害し難い聖祓を与える」の方は明らかな誤訳。「聖祓」はお祓いのこと(創文社訳のおかしな造語)、それを言うなら「聖別」ですが、ここはカトリック限定の話ではないため、私は「犯すべからざる神聖なお墨付きを与える」と訳しました。大体「お祓い」は神道用語で「穢れを清める」ことで、ここで言っている神聖な権威を与えるのとはまるで意味が違いますし、そもそも神道に「聖なる」という概念は存在しません。

原文
Sie wirkt in dieser Form wesentlich ebenso wie die magische Ethik. Das heißt, allgemein gesprochen: sie gibt erst den von ihr rezipierten Konventionen die unverbrüchliche Weihe, weil auch hier an der Vermeidung des göttlichen Zornes, also an der Bestrafung des Übertretens der Normen die Gesamtheit der Anhänger des Gottes als solche interessiert ist.

折原訳
そうした形態における宗教性の作用は、本質上、魔術的倫理に等しい。ということは、一般的にいえば、宗教性が、それによって受け入れられた慣習律に対して、侵害し難い聖祓を与える、ということである。ここでもまた、神の怒りを回避すること、したがって、規範の侵害を罰することが、当の神の信奉者が一体となって関心を寄せる事柄だからである。

丸山訳
こうした形態においての信仰は、本質的に魔術的観念に基づく倫理と同等のものである。それはつまり、一般的に言えば:その信仰がまずはそれによって受け入れられた様々な慣習に対して、犯すべからざる神聖なお墨付きを与えるということであり、何故ならばまたここでも神の怒りを避けることが、つまりは規則の侵害への処罰が、その神のそういった信者全体の利害に関わっているからである。