折原浩訳の問題点(45)

ここはなかなか面倒な箇所ですが、
(1)「[瞑想ではなく]能動的な「行為」」の[]内の注釈は明らかに変。神は瞑想なんかしません。行為と瞑想が対立的になるのは人間の方。
(2)「神的なものの本質を、...徹底して置き換え」って一体何を置き換えるのか?ここは単に「置いた」ということ。
(3)1~4とも全て動詞は接続法二式で、ヴェーバーは自分の意見として断定しては書いていないのに、折原訳は全て断定で訳している。
(4)(44)と同じですが「即人的な摂理」、一体何ですかそれ。(笑)

原文
Es kann keinerlei Auffassung der religiösen Beziehung geben,
die 1. so radikal aller Magie entgegengesetzt wäre, theoretisch wie praktisch, wie dieser, die großen theistischen Religionen Vorderasiens und des Okzidents beherrschende Glaube, keine auch,
die 2. das Wesen des Göttlichen so stark in ein aktives »Tun«, in die persönliche providentielle Regierung der Welt verlegte und dann keine,
für welche 3. die göttliche, frei geschenkte Gnade und die Gnadenbedürftigkeit der Kreaturen, der ungeheure Abstand alles Kreatürlichen gegen Gott
und daher 4. die Verwerflichkeit der »Kreaturvergötterung« als eines Majestätsfrevels an Gott so feststünde.
Gerade weil dieser Glaube keine rationale Lösung des praktischen Theodizeeproblems enthält, birgt er die größten Spannungen zwischen Welt und Gott, Sollen und Sein.

折原訳
宗教的関係にかんするなんらかの捉え方のうちで、西アジアおよび西洋の有神論的な大宗教を支配した、この摂理信仰ほど、つぎの諸特徴を顕著にそなえたものはない。すなわち、1. 理論上も実践上も、あらゆる魔術に根本的に敵対し、2. 神的なものの本質を、[瞑想ではなく]能動的な「行為」つまり即人的な摂理にもとづく世界統治に、徹底して置き換え、3. 神の自由な贈り物としての恩恵を、被造物が切実に必要としながらも、その神に対しては全被造物が途方もない深淵によって隔てられている、と説き、それゆえ4. [被造物がその隔たりを抹消しようとする]「被造物神格化」を、神にたいする最大の冒涜 [不法行為]として非難したこと、――この四特徴である。この信仰は、実践的な神義論問題の合理的な解決をなんら含んでいないのであるが、まさにそれゆえに、世界と神、当為と存在との最大の緊張を内包している。

丸山訳
宗教上の神と人の関係の把握において、近東及び西洋での規模の大きな人格神的諸宗教を支配したこの摂理信仰ほど、以下の点にまで達したものは存在していない:
1.これほど徹底してあらゆる魔術に対して、理論的も実践的にも対立するものはないであろうこと。
2.神的なものの本質を非常に強く能動的な「行為」に、つまり人格神的な摂理による世界の支配という点に置いていると思われること。
3.この摂理信仰にとって、神が自由に贈った恵み、被造物の恵みへの欲求、そして全ての被造物的な事柄と神との間の距離が途方もない隔たりが、これほど確固たるものとなっているであろうこと。
4.そしてそれ故に、「被造物神化」を神の威厳への冒涜として排斥されるべきものとしてこれほどはっきりと決まっていたであろうこと。
そしてまさにこういった信仰が実際的な神義論問題の解決をまったく含んでいなかったために、それは世界と神、当為と存在の間の非常に強い緊張関係を孕んだままなのである。

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