「ローマ土地制度史」日本語訳(3)P.100~P.102

「ローマ土地制度史」の日本語訳の3回目です。ここでモムゼンとマイツェンとの関係についての言及が出てきます。このヴェーバーの研究は「中世合名・合資会社成立史」の論文審査の時のモムゼンとヴェーバーの論争とおそらく関係があり、またヴェーバーがその講義を聴いていたマイツェンの欧州の農村分析の手法の影響を強く受けています。
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 専門家に対しては特に改めて断ることではないが、研究方法について、以下に続く論文ではただ確固たる理論的な土台の上で議論しているか、あるいはしようと努めている。その理論的な土台とは、まず何を差し置いても、モムゼンがローマの全時代の国法・行政法の研究について確立したものである。しかし私は一方で、以下のことを告白するという喜ばしい義務を負っている。それはつまり、私の尊敬する先生である枢密参事官のマイツェン博士・教授から、個人的にご厚誼をいただくようになって以来ご教示いただいたことによって、古代ローマ時代の土地制度の研究を行う上で、理解を深めるための多数の実際的な研究上の見地が私に利用可能になったということである。我々がここで扱う歴史的素材の状況について次のことは確かである。つまり古代に関しての土地制度・植民史を直ちに師の偉大な著作≪1895年の「西・東ゲルマン、ケルト、ローマ、フィン、スラブ諸民族の集落と農業事情」のこと、全集の注釈による≫と肩を並べるレベルで書くことは不可能であるということである。――しかしそうは言っても私は次のことは試みている。つまり我々にローマの土地法として立ち現われている現象の観察において、その法の実際的な意義を見極めるために、その法の利害関係者を調査するということである。その手法の意義の評価については私は到底マイツェン先生のレベルには到底及ばないし、またそれについて詳しく学ぶ機会も持てていない。  以下の論文では、歴史上の素材を歴史の中での連続性を保持したままのものとして叙述するということは出来なかった。何故なら、ほとんど常に結果から原因を推し量るという帰納的推論を用いなければならなかったし、それ故に歴史的な流れでの中では先行する状態について、我々に伝えられている後の時代の状態から遡って推論するしかなかったからである。色々な形で次のことも度々必要となった。つまり統一性を持った歴史上の諸現象について、様々に異なった個別の側面からその本質に近付くと言うことが。そのことによってまた、何度も同じようなことを繰り返し述べているという印象も避け難くなった。  我々はまずはローマ史のいくつかの問題について、手短かに描写することを試みる。その問題への解答には土地制度史が、若干ではあるが貢献するし、また適当であると見なすことが出来る。 ローマ史においての土地制度史上の諸問題  古代の確かな情報、つまり我々がローマ史として知っていることにおいて、ローマの都市が海外の領地と、また明らかに海事政策において、それぞれと深く関わっていることが示されている一方で、その後の時代になると我々の眼前にて、ローマの大陸への侵略という暴力劇の上演が開始される。その侵略とはローマの都市の政治的な優勢状態を拡大するということを意味するだけでなく、また同時に絶え間ないローマの植民の拡張と、ローマに征服された地域での資本家による搾取をも意味していた。その一方でローマの海上支配の優勢はこういった拡張と少なくとも同一の歩調を取っていた訳ではなかった。ここにおいて次の疑問が生じる:誰がこれらの侵略戦争を主導したのか?――それは次のことについての疑問ではない:どこからこれらの軍事力が出てきているのか?もちろんこの問いについても詳論に値するが、というのはもしローマの大帝国がゲルマン民族の大移動に対して、それより600年前のイタリアがケルト人[ガリア人]に対してそう出来たように、同様の軍事力を使うことが出来たとしたら、そうであったら結果はほぼ同等のものであったろう、――そういう疑問ではなくて:どのような社会の諸階層と経済上の利害関係者集団が政治的な意味で≪侵略戦争の≫推進力を作り出したのか、そしてまた:≪ローマ史において≫叙述されているローマの政治における明らかな重心の移動がどのような諸傾向を作り出したのか、ということについて、その重心の移動というものは主として特定の利害関係者集団の努力によって意識的に作り出されたものかどうか、という疑問である。  我々が更に次のことも見て取る。≪オプティマス[元老院派]とポプラレス[民衆派]の間の≫党派抗争の時代に、戦いにおいての本来の戦利品、つまり勝者が得るものとして、公有地、つまり ager publicus という土地制度が作り出されたのである。実際のところそれまで大国において政治的支配というものが、そこまで直接的に貨幣価値に結び付けられた例は存在しなかった。既に古代においてそういう風になっていたということは、確かに非常に高いレベルで独自の位置を占めていた。その位置においては、 ager publicus を経済的・法的な考慮の結果として受容しているのであるが、その場合さらに次の疑問が生じる。つまりどのような基本的な考え方がこういった位置付けを発生させたか、ということである。ある公的な権力の、法的に見て非常に不安定な公地への居住に対しての激しい対立があり、その居住に地する法的な保護はただその土地への権利侵害の場合にのみ行われていたが、その権利侵害は我々の概念では、懲罰の対象となる犯罪と見なされるべきものである。更にはそれは地所についての私有権の侵害でもあり、その私有権は所有者に基づく自由な処分と、それによる≪例えば売却という≫極端な帰結への最大限の可能性という個人主義的な動機を産み出していたが、そういった公的権力と公地への居住は、その外見において、意図的な行為と近代主義的思考の様相を身にまとっていた。――その場合次の疑問が出て来る:こういった所有権の概念に関わる土地制度の領域において、どのような経済上の考え方がそれに適合していたのか、という疑問である。その考え方は今日でも我々の法的な思考を支配しており、ある者はその論理的帰結の故にそれに賛嘆しているし、また他の者≪例えばマルクス主義者≫はそれを諸悪の根源として我々の土地所有権の領域において非難しているのである。

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