ヴェーバー学ではなく折原学

折原浩先生は「理解社会学のカテゴリー」を非常に重視しており、その中でも「諒解」を最重要視しています。例えば2008年の「ヴェーバー研究の「新しい風」に寄せて」では、

「二、松井著の意義と射程――「諒解」概念の展開可能性
松井著と小著とは、「カテゴリー論文」の基礎概念にもとづく「旧稿」の体系的読解をめざし、(「旧稿」を、著者ヴェーバーの「1914年構成表」に依拠して、①「概念的導入」篇、②「ゲマインシャフト」篇、および③「支配」篇に三分すれば)松井著が①と②、小著が①と③を集約的に論じ、その意味で相互補完関係をなしている。したがって、読者がいま「旧稿」全篇を体系的に読解しようとされるならば、小著をプロレゴーメナとする両著の併読が、ヴェーバー研究の現在の到達水準から道標を提供する案内として役立つであろう。

そのうえで松井著は、ヴェーバー研究の活性化をめざし、「カテゴリー論文」の基礎概念中とくに「諒解Einverständnis」に着目して、「ヴェーバー社会理論」のダイナミクスを復権させようとする。「鉄の檻」(「官僚制」)による現代人の「無気力な歯車」化といったステレオタイプにたいしても、(外からニーチェを持ち出すのではなく)「ヴェーバー社会理論」への内在を深めることによって、突破口を探ろうとする。しかも、「諒解」概念とその射程にかけては、佐久間孝正や中野敏男の「物象化論」を批判の俎上に乗せ、筆者の「没意味化論」にもとづく、「ゲゼルシャフト関係」の「頽落態」という「諒解関係」の捉え方にも、正面から批判を加える。松井によれば、ほとんどすべての「ゲゼルシャフト形成」は、「制定秩序」を「授与」されるゲマインシャフトの内部に、それ以前の(より「原生的」な)ゲマインシャフトを「取り込み」、「再編成」し、常態として「ゲマインシャフトの重層」構造を創り出す。「ゲゼルシャフト関係」の「合理的」秩序といえども、じつは「諒解」によって「妥当」するのであり、したがって「諒解」のカテゴリーこそ、あらゆる「ゲマインシャフト(社会)秩序」の存立と変動を解く鍵である。」

しかしながらこの「諒解」は「社会学の根本概念」では全く消滅しています。例えば「カテゴリー」論文でヴェーバーが諒解の例として挙げた言語については、「しかし言語の共通性は、それ自体ではまだゲマインシャフト関係を意味するものではなく、当該集団内の交通を容易にするだけであり、したがってゲゼルシャフト関係の成立を容易にするだけである。」と述べており、つまりは「ある人間集団が言語を共通にしているだけではそれはゲマインシャフト関係にあるとは必ずしも言えない。」ということです。(私が敢えていうならこれは言語ゲノッセンシャフトです。)なので折原浩先生が「諒解」こそ「あらゆる「ゲマインシャフト(社会)秩序」の存立と変動を解く鍵である。」とするのは、ヴェーバー本人が戦後重視しなくなっていたことを勝手に変えていて、もはやヴェーバー学ではなく折原学です。この点は非常に重要なので、折原浩先生がそう述べているんだからそれがヴェーバーの本当に主張したかったことなんだ、と思うべきではありません。

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