折原訳 persönlich =「即人的」の理由推測

折原浩先生の persönlich を「即人的」とする奇妙な訳ですが、ようやく根拠らしきものを突き止めました。
The Max Weber Dictionary: Key Words and Central Conceptsという本があって、元々この本の存在は折原先生に教えてもらったものです。(本の中に折原先生のドイツ語論文の一部の引用がある関係で献本を受けたようです。)この本にPersönlichkeitの項目があり、「ヒンドゥー教と仏教」の一部を参照しています。そこを見たら、要するにヴェーバーは西欧のPersönlichkeit(人格)や人格神といったものを例によって西欧独特と見ており、アジア宗教ではPersönlichkeitが例えば仏教における「我」のように通常は否定的に扱われているという議論をしています。ヴェーバーは「ここでは」Persönlichkeitを「責任主体性」「合理的自我」のような特殊な意味で使っている訳です。
ですが、これを根拠にpersönlich を「即人的」としたのであれば、これは完全にナンセンスです。

1.「宗教社会学」は第一次世界大戦前のいわゆる「旧稿」の一部で、そこに出て来る言葉を戦後に書かれた「ヒンドゥー教と仏教」での特殊な用語法に基づいて解釈するのは完全に誤り。

2. 「宗教社会学」でヴェーバーはそのような定義を一切しておらず、ネイティブが読んでもそんな特殊な意味を読み取ることはありえない。

3. しかも元の単語はあくまで名詞であり、その副詞形が同じ意味を保持しているというのもまったく根拠がない。

4.更には「即人的」という語はまったくの意味不明であり、「責任主体に関連するような」という意味にもまったく取れません。

1.についてはそもそも「経済と社会」の旧稿は戦後に書かれた「社会学の根本概念」ではなく戦前に書かれた「理解社会学のカテゴリー」を参照して読むべきと主張している人にしては完全なダブルスタンダードです。

またこの例からも分かるように折原先生はヴェーバーの思想的発展・変化を無視して、何か完成したヴェーバー社会学が存在するかのような幻想を元に、「ヴェーバーが使う単語はきちんと定義されており、常に同じ意味で使われる」といった、まったく証明も出来ないしかつ正しくもない思いこみがあるようです。以前も書いたように「経済と社会」という「完成した」「ヴェーバー社会学の教科書」を捏造しようとしていることからこういう発想が出て来るのだと思います。前にも言ったようにそれはもうヴェーバー学ではなく折原学に過ぎません。

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