「理解社会学のカテゴリー」のタームが、「経済と社会」の中で決して効果的にも説得的にも、意味整合的にも使われていないという例を見つけました。
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「支配の社会学」世良訳:P. 115 「四 官僚制的装置の永続的性格」
ひとたび完全に実現されると、官僚制は最もうちこわしがたいい社会組織の一つになる。官僚制化は、「ゲマインシャフト行為」を合理的に組織された「ゲゼルシャフト行為」に転移させるための、特殊的手段そのものである。したがって、官僚制化は、官僚制的装置を統轄する者にとって、支配諸関係の「ゲゼルシャフト化」の手段として、過去においても現在においても、第一級の権力手段なのである。
(元訳の「共同社会行為」などは「ゲマインシャフト行為」等に変更。)====================================
ここで言っているのは「ゲマインシャフト」を「ゲゼルシャフト」に転移させること(「ゲゼルシャフト化」)において官僚制化が有効と言っているのであって、ゲマインシャフト、ゲゼルシャフトにそれぞれ「行為」を付けるのは、それをヴェーバーが「理解社会学のカテゴリー」で定義していることを考えても、およそ無意味で誤解を招くだけです。成員の行為に変化が生じるのは、その共同体の性格が変わった結果であり、原因でも先行するものでもありません。
折原先生の説明だと、ヴェーバーは社会関係を所与のものとせず、個々の成員の行為から動的に構成されると論じているのですが、それが通じるのはゲマインシャフトの最初の形成の段階だけであり、ここのようにゲマインシャフトがゲゼルシャフトへと合理化する過程においては既に行為はその動因としては無意味になっています。従ってヴェーバーのカテゴリー論自体が破綻していると考えます。要するにカテゴリー論文が持っている元々の欠陥がここに現れているのであり、「頭」としては機能出来ていな例です。