原文
Entweder ist dies eine spezifische Gabe aktiv ethischen Handelns mit dem Bewußtsein, daß Gott dies Handeln lenke: daß man Gottes Werkzeug sei. Wir wollen für unsere Zwecke diese Art der durch religiöse Heilsmethodik bedingten Stellungnahme eine religiös-»asketische« nennen — ohne irgendwie zu bestreiten, daß man den Ausdruck sehr wohl auch in anderem, weiteren Sinn brauchen kann und braucht: der Gegensatz dazu wird später deutlich werden.
折原訳
そうした救済財は、神が人間の行為を導き、人間は神の道具である、という意識をもっておこなわれる、積極的な倫理的行為という独特の賜物である [か、それとも、後段で採り上げる] 独特の状態性であるか、どちらかである。宗教的救済技法によって制約された、この種の立場決定を、ここでは、われわれの目的に照らして、宗教上「禁欲的」な立場と呼ぶことにしたい。もとよりこの禁欲という表記は、もっと広い別の意味でも用いられようし、現に用いられているが、ここではそうした議論には立ち入らない。用語法のそうした対照的差異は、やがて後段で 、明らかにされるであろう。
丸山訳
そうした救済財はある場合は[1]、借方としての[2] 倫理的な行為の特別な賜物であり、次のような意識を伴っている。つまり、その行為を神が導いた、ないしは人が神の道具である、ということである。我々は我々の目的のために、この種の宗教的な救済の方法論に制約された態度表明を、宗教的に「禁欲的」なものと呼ぶことにしたい--ここでは次のことに対して異論を唱えることはしない。それはこの表現が非常にしばしばまた別の、より広い意味で使われうるし、実際に使われているということである:そういった一般用法との対比は後に明らかにされる。
[1] このEntwederに対応する別の場合は、ずっと先に出て来る。
[2] aktivは「借方の」という意味で、前の文で救済財を「貸方」としたのに対応している。