折原浩訳の問題点(90)

ここは前回の箇所の次の文。一箇所間違えると連動して関連箇所も間違えるという例です。一行目の aktiv を折原訳はHandelnsにかかる形容詞のように「積極的な」と訳していますが、このすぐ前に救済財を「貸方」にある財産としていますので、ここのaktivは副詞であり、「借方での」という意味としか解釈出来ません。「借方」は外部に向かって出ていくものですから、この場合、「行為」はまさしくそういうものです。この「借方」側の行為が、「貸方」側の救済財とバランスしている、と自然に読めます。そもそも救済「財」という言い方からして、ヴェーバーはずっと宗教に対して経理的な説明をしているのを折原センセも創文社訳の訳者も読めていません。(ということは日本のヴェーバー関係者の大半も正しく読んでいないということです。)

原文
Entweder ist dies eine spezifische Gabe aktiv ethischen Handelns mit dem Bewußtsein, daß Gott dies Handeln lenke: daß man Gottes Werkzeug sei. Wir wollen für unsere Zwecke diese Art der durch religiöse Heilsmethodik bedingten Stellungnahme eine religiös-»asketische« nennen — ohne irgendwie zu bestreiten, daß man den Ausdruck sehr wohl auch in anderem, weiteren Sinn brauchen kann und braucht: der Gegensatz dazu wird später deutlich werden.

折原訳
そうした救済財は、神が人間の行為を導き、人間は神の道具である、という意識をもっておこなわれる、積極的な倫理的行為という独特の賜物である [か、それとも、後段で採り上げる] 独特の状態性であるか、どちらかである。宗教的救済技法によって制約された、この種の立場決定を、ここでは、われわれの目的に照らして、宗教上「禁欲的」な立場と呼ぶことにしたい。もとよりこの禁欲という表記は、もっと広い別の意味でも用いられようし、現に用いられているが、ここではそうした議論には立ち入らない。用語法のそうした対照的差異は、やがて後段で 、明らかにされるであろう。

丸山訳
そうした救済財はある場合は[1]、借方としての[2] 倫理的な行為の特別な賜物であり、次のような意識を伴っている。つまり、その行為を神が導いた、ないしは人が神の道具である、ということである。我々は我々の目的のために、この種の宗教的な救済の方法論に制約された態度表明を、宗教的に「禁欲的」なものと呼ぶことにしたい--ここでは次のことに対して異論を唱えることはしない。それはこの表現が非常にしばしばまた別の、より広い意味で使われうるし、実際に使われているということである:そういった一般用法との対比は後に明らかにされる。

[1] このEntwederに対応する別の場合は、ずっと先に出て来る。

[2] aktivは「借方の」という意味で、前の文で救済財を「貸方」としたのに対応している。

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