折原浩訳の問題点(177)

9月に入りましたが、いきなりまたひどい訳の箇所。
(1)「黄金時代と至福の始原状態における人間の普遍的な無政府的平等」→何でひっくり返して係り受けが曖昧になるように訳すのか。「普遍的な無政府状態にあるような人間の平等という黄金時代と天国的な始原状態」であり、黄金時代=天国的な始原状態、です。
(2)「人間には、罪の結果は全て度外視するとしても、純然たる自然の差異がある」→ rein natürlichen Verschiedenheit der Menschen以下がトマス・アクィナスの主張であり、その前の部文は全て前にかかります。「アニミズム的な霊魂・あの世の信仰に多様な形で良く知られているイメージでもあり、自然な、また全ての罪の結果を見ないようにした場合のものであるが」(但し下記の訳注参照。)
(3)「形而上学的に演繹してもいる」→直訳調以外の何物でもありません。「そこから形而上学として演繹的に導かれる」とした方がはるかに自然です。
(4)「あるいは二元論的に動機づけられた世界の堕落のゆえ、いずれかによる。」→原文のverurteiltを訳していない。「判決を受けている」は直訳過ぎるけど、「宣告されている」「運命付けられている」ぐらいの訳が必要。
(5)「ストア派および古代キリスト教の教説」→なぜつながっているものを別のものにするのか。「ストア派的な古代のキリスト教」ということ。

原文
Teils nimmt sie, wie z.B. Thomas von Aquino im Gegensatz — wie Troeltsch mit Recht betont — zur stoischen antik-christlichen Lehre vom goldenen Zeitalter und seligen Urstand der allgemeinen anarchischen Gleichheit der Menschen, die schon dem animistischen Seelen- und Jenseitsglauben vielfach geläufige Vorstellung von der natürlichen, auch, von allen Folgen der Sünde abgesehen, rein natürlichen Verschiedenheit der Menschen, welche ständische Unterschiede des Diesseits- und Jenseitsschicksals bedingt, auf. Daneben aber deduziert sie die Gewaltverhältnisse des Lebens metaphysisch. Entweder kraft Erbsünde oder kraft individueller Karmankausalität oder kraft dualistisch motivierten Weltverderbs sind die Menschen verurteilt, Gewalt, Mühsal, Leiden, Lieblosigkeit zu ertragen, insbesondere auch die Unterschiede der ständischen und Klassenlage.

折原訳
この有機体説的職業倫理は、一方では、たとえばトマス・アクィナスが、――この点はトレルチが正当にも強調したところであるが――黄金時代と至福の始原状態における人間の普遍的な無政府的平等というストア派および古代キリスト教の教説に反対して唱えた場合と同様、人間には、罪の結果は全て度外視するとしても、純然たる自然の差異がある、という考え方を採り入れる。これは、すでにアニミズム的な霊魂信仰や彼岸信仰にも多様に見られる、ありきたりの観念で、此岸および彼岸の運命が身分的に分化を遂げるのも、そうした自然の差異に起因すると考えられるのである。他方、有機体説的職業倫理は、この観念とならび、生の暴力的諸関係を。人間が暴力・艱難・苦悩・非情その他・とりわけ身分状況と階級状況の差異を耐え忍ばなければならないのは、原罪のゆえ、個々人の業-因果のゆえ、あるいは二元論的に動機づけられた世界の堕落のゆえ、いずれかによる。

丸山訳
有機的な職業倫理が部分的に受け入れているのは次のものである。それは例えばトマス・アクィナスが[1]--トレルチが正当にも強調したように--ストア派的[2] な古代のキリスト教の教えである、普遍的な無政府状態にあるような人間の平等という黄金時代と天国的な始原状態に対して反対した、そういった考え方は既に、アニミズム的な霊魂・あの世の信仰に多様な形で良く知られているイメージでもあり[3]、自然な、また全ての罪の結果を見ないようにした場合のものであるが、[そうではなくて]純粋に自然な人間の差異、それは現世と来世の運命においての身分的な差異によって条件付けられたものであるが、そうった差異である[4]。それに並んでしかしそこから形而上学として演繹的に導かれるのは、生においての暴力的な諸関係である。原罪によってか、業の因果律によってか、あるいは二元論的に説明される現世の荒廃によってか、人間は暴力、困窮、苦難、無情さを、特にまた身分的・階級状態の差異をも耐え忍ばなければならないよう、宣告されているのである。

[1] トマス・アクィナスは「神学大全」で人間は神の似姿として創られたという点では平等ではあるものの、神は世界の多様性を実現するために、それぞれの人間に差異を与えた、と説いた。

[2] ストア派は社会的な地位や財産といった外面的な差異は重要ではなく、人は等しく理性(ロゴス)を与えられた平等な存在であると主張した。

[3] ここは素直に文面通り読むと、「人間の差異」という考え方がアニミズムで一般的となるが、一般的なアニミズム理解と全く逆であり、訳者は「アニミズムでは人間平等的」と判断して訳している。

[4] この議論は例によって独断的であり、トマスの人間差異論は神が世界の多様性を実現するためにそうした、というもので、トマスはそれによって人間の運命が決定付けられてると言っているのではない。

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