最後のwie dies z.B.以下は何故か折原訳は2つの文に分けています。そして分けたことによって分かりやすくなってないどころか、まったく勘違いの訳をしています。
wenn nicht ausgesprochenermaßenは、単にそのカルヴィニスト達が明示的に述べていなかったけれども、であって「公然と認められなかった」は誤訳です。しかも2つに分けてしまったために、「妥協付きではあったが、実践において基礎となっていた」という文構造が却って分かりにくくなってしまっています。
原文
Denn dies ist dann eben keine universalistische Erlösungsreligion. Der gottgewollte Zustand ist gerade die Gewaltherrschaft der Gläubigen über die geduldeten Ungläubigen, und also die Gewaltsamkeit als solche kein Problem. Eine gewisse Verwandtschaft damit zeigt die innerweltliche Askese dann, wenn sie, wie der radikale Calvinismus, die Herrschaft der zur »reinen« Kirche gehörigen religiösen Virtuosen über die sündige Welt zu deren Bändigung als gottgewollt hinstellt, wie dies z.B. der neuenglischen Theokratie, wenn nicht ausgesprochenermaßen, so doch in der Praxis, natürlich mit allerhand Kompromissen, zugrunde lag.
折原訳
つまりこの場合、宗教は、普遍主義的な救済宗教ではない。神意に適う状態とは、信仰者が、忍従する無信仰者に対してまさしく実力を行使し、無信仰者を支配することであり、それゆえ実力の行使は、それ自体、なんら問題ではない。
現世内禁欲にも、つぎの場合には、こうした立場との一定の親和性が認められる。すなわち、現世内禁欲が、急進的なカルヴィニズムのように、「純粋な教会」に属する宗教的達人による支配を、罪深い現世を制圧するために必要と認め、神意に適うとみなす場合である。たとえは、ニュー・イングランドの神政政治は、そうした支配を基礎としていた。この点は、もとより公然とは認められなかったとしても、実践においては否み難く、当然、ありとあらゆる妥協をともなっていた。
丸山訳
何故ならばこうした儒教や古イスラム教の場合は、普遍的な救済宗教ではまったくないからである。神が嘉する状態というのは、まさしくその信者による、忍耐強い不信心者に対しての暴力による支配であり、それ故に暴力行使それ自身は何の問題もない。今度は現世内禁欲の場合は、それが、極端なカルヴィニズムにおけるように、「本当の」教会に所属する宗教的な練達者[Virtuosen]が、罪にあふれた現世について、その飼い慣らしを、神が嘉することと位置付ける場合に、こうした暴力の認容と一定の類似性を示しており、その例としてはニューイングランドにおける神権政治[1] があり、明確に主張されていた訳ではないが、しかし実践において、もちろんあらゆる妥協付きではあったが、その基本に置かれていた。
[1] チャールズ1世による専制の期間を中心として、1641年までに20,000人を超えるピューリタンがアメリカに渡りニューイングランドに入植した。それから1728年まで、ピューリタンが教会組織そのものを政府とした神権政治を実施した。