折原浩訳の問題点(179)

personalistischもpersönlichも「即人(的)」で済ませているけど、仮に「即人的」というおかしな日本語を認めたとしても(私は認めませんが)同じ訳はないと思います。ここでのpersonalistischは要するに儒教の、文人的教養と儒教的礼を身に付けた官僚の「人格主義」のことであり、「即人主義的性格」は単に「即人的」より更に意味不明です。persönlichの方は要は「人と人の関係に基づく」ぐらいの意味です。
それから最後の「制御されている」って機械じゃあるまいし。ここは「特に行政」とあるのだから、「統治されている」です。

原文
Überdies aber ruhte die mittelalterliche wie die lutherische traditionalistische Berufsethik auch rein faktisch auf einer zunehmend schwindenden allgemeinen Voraussetzung, welche beiden mit der konfuzianischen Ethik gemeinsam ist: dem rein personalistischen Charakter ebenso der ökonomischen wie der politischen Gewaltverhältnisse, bei welchem die Justiz und vor allem die Verwaltung ein Kosmos des Sichauswirkens persönlicher Unterwerfungsverhältnisse ist, beherrscht durch Willkür und Gnade, Zorn und Liebe, vor allem aber durch gegenseitige Pietät des Herrschenden und Unterworfenen nach Art der Familie.

折原訳
そのうえ、中世およびルター派の伝統主義的職業倫理は、純然たる事実の平面においても、次第に減衰していく一般的な前提に依拠するものであった。その前提とはすなわち、両者と儒教倫理とに共通の、経済的また政治的権力関係の即人主義的な性格である。この性格を前提とれば、司法および行政、とくに後者は、即人的な服従関係が有効に行き渡っている宇宙であり、恣意と恩恵・怒りと愛・とりわけ家族関係に倣う支配者-服従者間の相互的恭順によって制御されていると見られよう。

丸山訳
その外にしかし、中世のまたルター派の伝統主義的職業倫理は、また純粋に事実として、ある次第に衰えていく一般的な諸前提の上に安んじており、その諸前提とは、両者と儒教倫理に共通のものである:つまり経済的かつ政治的な権力諸関係の純粋に人格主義的な性格であり、その性格においては、司法と特に行政は人的な服従諸関係が効果を及ぼす一つの世界であり、そこでの統治は自由裁量と慈悲、怒りと愛、取り分けしかし家族的な関係と見なされた支配する側と服従する側の相互の恭順によって行われている。

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