ここのAnsehenを「人柄」と訳すのは内容をまったく理解していないひどい誤訳です。そもそもansehenという動詞自体が「~を見る」という意味なのに、内面的な人柄に関して言っているのでまったくなく、「地位・立場・身分」に応じて振る舞いを変える、と言っている訳です。
また、「たとえばトマス・アクィナスによって問われている」も「またトマス・アクィナスにおいても」であり、何故こんな簡単な箇所を正しく訳せないのか理解に苦しみます。これは学術的な翻訳ではなく折原版「超訳」です。
原文
Daß man nach Ansehen der Person verschiedenen verfahren müsse, versteht sich der personalistischen ständischen Ordnung von selbst und nur in welchem Sinn wir gelegentlich, auch bei Thomas von Aquino, zum Problem. »Ohne Ansehen der Person«, »sine ira et studio«, ohne Haß und deshalb ohne Liebe, ohne Willkür und deshalb ohne Gnade, als sachliche Berufspflicht und nicht kraft konkreter persönlicher Beziehung erledigt der homo politicus ganz ebenso wie der homo oeconomicus heute seine Aufgabe gerade dann, wenn er sie in idealstem Maße im Sinn der rationalen Regeln der modernen Gewaltordnung vollzieht.
折原訳
即人主義的な身分秩序にとっては、人柄の如何に応じて対応を変えるのが、自明のことで、ただいかなる意味で自明なのかが、時折、たとえばトマス・アクィナスによって問われているだけである。今日の政治人は、経済人とまったく同様、近代的権力秩序の合理的規則に即して、もっとも理想的に [なにか変則的にではなく] 自分の課題を果たすときにこそ、「人柄の如何を問わず」「怒りも偏愛もなく」――憎悪がないとはいえ愛着もなく、恣意がないので寵愛もなく、つまり具体的な即人的関係に準拠してではなく、即物的な職業的義務として――、自分の課題を遂行する。
丸山訳
人が他人の身分・地位・立場[Ansehen]によって振る舞い方を変えなければならないということは、人格主義的な身分秩序自身には自明のことであり、ただどういう意味でかがその時々に、またトマス・アクィナスにおいても、問題にされるのである。「相手がどういう[立場・身分・地位の]人であるかに関係無く」、「怒りと偏見なしに[1]」、つまり憎しみもなく、それ故に偏愛もなく、恣意もなく、それ故に愛顧もなく、物的な職業義務として、具体的な人的な関係に拠るのではなく、ホモ・ポリティクス[政治的人間]とまさしく同様にホモ・エコノミクス[経済的人間][2] も、今日ではそれぞれの解題をまさに、その者がそういった課題を近代的な権力秩序の合理的な規則という意味でもっとも理想的な形で遂行する場合に、解決するのである。
[1] sine ira et studio、ローマの歴史家タキトゥスの「年代記」の冒頭に書かれた章句。
[2] ホモ・ポリティクス[政治的人間]もホモ・エコノミクス[経済的人間]も、人間の政治的・経済的な要素だけを純粋に取り出した仮想的な人間像のこと。近代経済学の仮定する経済的に合理的な行動はホモ・エコノミクスのものである。