ゲノッセンシャフトやケルパーシャフトを無神経に「団体」と訳すのと逆の例。
ここでのAlle gesellschaftliche Ordnungは一般論を述べているのであって、
「ゲゼルシャフトの秩序」などと訳すのは逆に誤解を招き、「社会的秩序」と普通に訳すべきと思います。「理解社会学のカテゴリー」にこだわりすぎている例です。
原文
Beides ist Vergeltung: der Verletzende »verdient« die Strafe, deren Vollziehung den Zorn besänftigt, ebenso wie der Nachbar die Nothilfe. Daß man den Feinden Böses mit Bösem vergelte, versteht sich für die chinesische, vedische und zarathustrische Ethik ebenso wie bis in die nachexilische Zeit für die der Juden. Alle gesellschaftliche Ordnung scheint ja auf gerechter Vergeltung zu beruhen, und daher lehnt die weltanpassende Ethik des Konfuzius die in China teils mystisch, teils sozialutilitarisch motivierte Idee der Feindesliebe direkt als gegen die Staatsräson gehend ab.
折原訳
双方とも、原則は応報にある。侵害者は、罰を受けるに「相応しい」のであり、その執行が、怒りを和らげる。同様に、難儀した隣人は、救難援助に「相応しい」。敵にたして、悪には悪をもって、とは、中国・ヴェーダ・およびゾロアスターの倫理にとっても、捕囚後の時期にいたるユダヤ教の倫理にとっても、自明のことである。じっさい、あらゆるゲゼルシャフトの秩序は、公正な応報に依拠しているように見受けられる。それゆえに、孔子の現世適応倫理は、中国において片や神秘的、片や社会功利的に動機づけられていた敵愛の理念 を、国家理性に反するものとして直截に拒否している。
丸山訳
その二つの動機は家族関係に基づくものではない日常的行為を決定付ける:その倫理の侵害者に対する適切な同害報復[目には目を歯には歯を]と、親しい隣人達が困っている場合の兄弟愛的な援助である。どちらの動機も報い[報復と報酬]である:侵害者は罰に「値し」、その罰の執行が[神の]怒りを鎮めるのであり、困っている隣人を援助するのも[それに値し、そのことが神を喜ばせるという意味で]まったく同じことである。敵に対して目には目を歯には歯をで報いるのは、捕囚後の時期に至るまでのユダヤ人にとってと全く同様に、ユダヤ人の中国・インドのヴェーダ・ザラスシュトラの倫理にとっては自明のことであった。全ての社会的秩序は確かに適切な報いに依存しているように見えるが、それによって孔子の現世適合的な倫理は、中国において一部は神秘的に、一部は社会実利的に動機付けられた敵を愛するという考え方[1] を、直接に国家にとっての道理に反するものとして拒絶した。
[1] 老子においての報怨以徳(怨みに報いるに徳をもってす)や、墨子の兼愛(普遍的な博愛)など。