折原浩訳の問題点(214)

この誤りは2回目なんですが、宗教社会学の翻訳としてはあってはならないレベルの間違いなので、もう一度取り上げます。
ここでの話は仏教での輪廻転生の話ですから、diesseitigem wie jenseitigemを折原訳のように「此岸であれ彼岸であれ」と訳すのは、致命的な誤りです。輪廻転生での「今の生」「次の生」ということです。言うまでもなく「彼岸」というのはそういう輪廻転生から「解脱」した場所のことです。

それからdie schmutzigste Sinnlichkeitを「汚れ果てた感性的欲望」と訳していますが、これも「この上なく汚れた肉欲」ということです。金融業者については大小を問わず「金貸し」で済ましているのに、こうした性関係の言葉になると奇妙なまでにぼかした訳にしてしまっています。
また「熱狂」も「高貴な」と合わず、ここで言っているのは宗教的昂揚感ぐらいです。

原文
Der edelste Enthusiasmus wie die schmutzigste Sinnlichkeit führen beide gleichmäßig immer wieder hinein in diese Verkettung der Individuation (für die buddhistische Metaphysik, die keine Seele kennt, sehr mit Unrecht »Seelenwanderung« genannt), solange nicht der »Durst« nach Leben, diesseitigem wie jenseitigem, der ohnmächtige Kampf um die eigene individuelle Existenz mit all ihren Illusionen, vor allem derjenigen einer einheitlichen Seele und »Persönlichkeit«, absolut ausgerottet ist.

折原訳
このうえなく高貴な熱狂も、汚れ果てた感性的欲望も、つねにひとしなみに、こうした個体化の連鎖(これを「霊魂輪廻」と呼ぶのは、霊魂を認めない仏教の形而上学からすれば、まったく不当なことであろう)に編入される。こうしたことが、此岸であれ彼岸であれ、生への渇望が根絶されないかぎり、つまり、自分自身の個体的生存をめぐるあらゆる幻想――とりわけ、ひとつの統一的な霊魂や「人格」といった幻想――による無力な悪あがきが、根絶し尽くされないかぎりは、とめどなく永遠に繰り返される、というのである。

丸山訳
最高度に高貴な昂揚も、この上なく汚れた肉欲も、両方同じように常に繰り返される個体化の連鎖の中にはまり込むが(仏教の世界観からすれば、それは霊魂というものを知らないので、それを「霊魂輪廻」と呼ぶのは非常に不当であるが[1])、現世についても来世についても、生そのものに対する渇望、つまり   存在についてのあらゆる幻想、取り分けある一つにまとまった霊魂と「人格」という幻想と一緒になった、自分自身の個別の存在を巡る空しい戦いが、完全に根絶されない限りは、そこからは抜け出せないのである。

[1] ここのヴェーバーの記載は正しく、アートマン(我)というものは仏教は認めていないが、しかし輪廻していくものとしての業によって条件づけられた因果的連続性は認めており、後の大乗仏教ではそれを阿頼耶識(ālaya-vijñāna)と名付けている。

 

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