ヴェーバーのインドの宗教理解の皮相さ

今回は折原訳ではなく、ヴェーバーの話ですが、この辺りの類型化はデタラメもいいところです。そしてインドの宗教についてほとんど理解しておらず、仏教とジャイナ教の区別もついていません。詳しくは私の訳注を参照願います。

丸山訳
瞑想的な神秘主義は、その者がその生き方の首尾一貫性を完全に保とうとした場合は、その生については、その者に強制ではなく自然からあるいは人々から差し出されるものによってのみ、維持することが必要であった:森の中の果実、そしてそういうものが常に十分に入手出来る訳ではないので、喜捨によってか、--その例としてインドの沙門[出家・修行者]の、もっとも徹底した種類の者達において事実上そうであった(そこから特別に全てのインドの比丘の規則[また仏教徒においても[1]]においての厳格な禁止が出て来る:自発的に提供されたもの以外のものを取ってはいけない。)いずれにしても、瞑想的な神秘主義者は現世からの何らかの施しによって生きているのであり、仮に現世が、その者が罪であり神から遠ざけるものと考えているもの:つまり労働を、常にやってくれなかったとしたら、その者自身が生きてはいけないのであろうということである[2]。仏教の修行層にとっては特に耕作が、何故ならばそれが土中の生き物[小さな虫なども含む]を傷つけることにならざるを得ないので、全ての仕事の中でもっとも好ましくないものであり[3]、--しかしその者が集める施物の中身は、まずは何より農産物である。

[1] 本来比丘は仏教の修行僧のことなので、この書き方はおかしい。おそらくはヴェーバーは比丘がヒンドゥー教、ジャイナ教などの修行僧のことだと誤解している。

[2] ここも、インドの話なら沙門が労働を「罪」とか「神から遠ざけるもの」と見なしていたという事実は存在しないし、また欧州の神秘家の話ならその者達は托鉢修道会の会士などを除けば必ずしも施しだけで生きていた訳ではない。更にはキリスト教全般で労働をはっきりと罪にするような教義は見当たらないどころか、そもそもパウロが宣教をしながら自分の天幕布作り職人の仕事を続けそれを自身で是としていた。また例えばジャイナ教の出家者は餓死することを理想視していた。等々を考えるとここのヴェーバーの説明はこじつけが強すぎる。古仏教において、出家が布施を前提に生きる-在家が出家僧に布施するのが半義務化されている、といった共生的構造は認めることが出来る。

[3] この説明はジャイナ教の出家者についての説明であり、仏教においてそこまで農耕作業を忌避するような考え方はない。仏教のアヒンサー(不殺生)はジャイナ教のそれに比べるとはるかに徹底度が低い。

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