もはや「1ページに数ヶ所」の誤訳というレベルではなく、この辺りは「ほぼ全ての文で」誤訳があります。全くヴェーバーが論じていることについて行けていません。よくもまあ、こんなレベルの人が「ヴェーバー宗教社会学の専門家」などと言って人に教えていたものです。これも聖書の譬えで
「そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」(マタイ15:14、新共同訳)がぴったりです。この譬えの最初の盲人は自分が律法を知りそれを守っていると思っているパリサイ人のことだと思いますが、折原浩も「自分こそヴェーバーの宗教社会学をもっとも理解しているし読み込んでもいる」と思っているという点でまったく一緒です。
(1) erastianisch を字面だけで判断して「エラスムス的」と誤訳。正しくは「エラストゥス主義」(下記の訳注参照)。大体エラスムスはルターと激しく論争していますけど。(ちなみに創文社訳は正しく訳し、かつ訳注も付けている。)
(2) Priester und Prädikanten を「祭司や説教者」といつの時代か分からないような、また並記しているかのような誤訳。ここは宗教改革の時の争いの話ですから、カトリックの司祭とプロテスタントの牧師の間の言い争いとデマゴギーに嫌気が差して、ということです。(ここは創文社訳の誤訳をそのまま踏襲。)
原文
Ihrem Lebensniveau entsprechend waren die klassisch gebildeten Humanistenschichten im ganzen antibanausisch und antisektiererisch gesinnt, dem Gezänk und vor allem der Demagogie der Priester und Prädikanten abhold, daher im ganzen erastianisch oder irenäisch gesinnt und schon dadurch zur zunehmenden Einflußlosigkeit verurteilt.
折原訳
古典的教養をそなえた人文主義者層は、その生活水準に相応しく、全体として、反俗的また反ゼクテ的な心情-心意の持ち主であり、祭司や説教者の口論、とくに大衆煽動を嫌った。それゆえ、全体としては、エラスムス的あるいは宗派宥和主義的な心情-心意に傾き、すでにそのことからしても、ますます影響力を失っていくほかはなかったのである。
丸山訳
古典についての教養を持った人文主義者層はその生活水準に適合して、全くの反世俗的で反教派的な志向を持っていたが、[カトリックの]司祭と[プロテスタントの]牧師の絶え間ない争いと特に大衆への扇動を嫌い、そのため全くのエラストゥス主義[1] または宥和主義的な志向に傾き、そのことによって既に、次第に影響力を持ち得なくなっていると否定的に判定されたのである。
[1] 16世紀のツヴィングリ派の神学者トーマス・エラストゥス(1524~1583年、スイス)に由来する考え方で、教会は独自の行政権や裁判権など持つべきではなく、国家に従属すべきというもの。