折原浩訳の問題点(75)

またひどいのが出てきました。原文の構造を勝手に変え、多くの場所で意味不明の訳をしています。

(1)Oder以下は別の文なのに、それをくっつけてしまっている。
(2)「善の「修練」による習得が原理上可能なものか、どちらかである」は可能かどうかではなく、可能である場合もあるという意味であり誤解を招く。
(3) Habitusの「(神から与えられた)霊的な力」の意味がまったく取れていない。
(4) positiv はここでは「積極的」ではなく「プラスの」、である。
(5)「外化され表現される」は日本語として意味不明、sich äußern は単に~において現れる、ということ。
(6)Gerichtetheit は「~に向けられていること」であり「心意が」は余計で不要。折原訳だと何か行為者が自分でそうするみたいになるが、ここは神の恩寵でそういう風に方向付けられていること、という意味。
(7)「ある方法に準拠して統一的に形成される生き方」も「ある統一され、方法的に整えられた生活実践」 で折原訳ではeinerが「方法」という書かれていない単語にかかるように読めてしまいます。

(私は心意倫理という訳は、理解は出来ますが、従来の心情倫理で十分意味としてはカバーされていると考えますので採用しません。)

原文
Aber sie ist es durchaus nicht immer, vielmehr ist sie meist die spezifische Form des ethischen Rigorismus. Der religiös positiv qualifizierte Gesamthabitus kann dabei entweder reines göttliches Gnadengeschenk sein, dessen Existenz sich eben in jener generellen Gerichtetheit auf das religiös Geforderte: einer einheitlich methodisch orientierten Lebensführung äußern. Oder sie kann umgekehrt durch »Einübung« des Guten im Prinzip erwerbbar sein.

折原訳
ただ、つねに必ずしもそうとはかぎらず、心意倫理はたいてい、むしろ倫理上の厳格主義に特有の形態である。その場合、宗教上積極的な性質をそなえたものと評価される人格全体の習性は、もっぱら神の恩恵による賜物であるか、あるいは逆に、善の「修練」による習得が原理上可能なものか、どちらかである。前者の場合、そうした賜物があるかどうかは、宗教的に要求される事柄に心意が全面的に向けられるあり方、つまり、ある方法に準拠して統一的に形成される生き方、に外化され表現される。

丸山訳
しかし心情倫理がいつもそうである訳ではまったく無く、むしろ大抵の場合は倫理的リゴリズムの特別な形態を取っていることが多い。宗教的にプラスの評価を与えられた総体での霊的な力は、その際にあるいは純粋に神からの恩恵としての賜物であり、その存在はまさに、宗教的に要求されることに対して、あの一般的に言われる方向付けられていることが:ある統一され、方法的に整えられた生活実践において現れるのである。またはそういう霊的な力は逆に善行の「訓練」によって一般的に獲得可能であるか、である。

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