折原浩訳の問題点(170)

169の箇所は重要性が高いのでそこだけ別にしましたが、この箇所は他にも色々おかしな訳があります。

(1)「伝統から解放された諸個人による」→von der Tradition Gelöstenは(von der Tradition) Gelöstenであり、führtの目的語です。
(2)「固有法則性」→既に指摘済みですが、「自律性」と訳すべき。
(3)「局地的で束の間の興亡」→partikulärenは「個々の」であり、「局地的で」などという意味はない。
(4)「大規模な世界帝国における普遍的な平和化と権力闘争の全面的な圧殺」→何故か二つに分けていますが、「大世界帝国においての、権力を巡る全ての闘争の普遍的な平定と根絶」です。また「圧殺」は誰によって?という疑問が出るので不適で「根絶」の方がはるかに良いと思います。
(5)「権力を拒否する宗教的同胞倫理」→ここではMachtとGewaldが使い分けられていますから、「暴力を拒否する宗教的な兄弟愛倫理」。また「同胞」も指摘済みですがおかしい。

Aber nicht dieser priesterlich organisierte »Sklavenaufstand« in der Moral allein, sondern jedes Emporwachsen asketischer und vor allem mystischer persönlicher Heilssuche des Einzelnen, von der Tradition Gelösten führt, wie wir sahen, kraft Eigengesetzlichkeit in die gleiche Richtung. Typische äußere Situationen aber wirken verstärkend. Sowohl der sinnlos scheinende Wechsel der, gegenüber einer universalistischen Religiosität und (relativen) sozialen Einheitskultur (wie in Indien), partikulären und ephemeren, kleinen politischen Machtgebilde, wie gerade umgekehrt auch die universelle Befriedung und Austilgung alles Ringens um Macht in den großen Weltreichen, und speziell die Bürokratisierung der politischen Herrschaft (wie im Römerreich), alle Momente also, welche den politischen und sozialen, am kriegerischen Machtkampf und sozialen Ständekampf verankerten Interessen den Boden entziehen, wirken sehr stark in der gleichen Richtung der antipolitischen Weltablehnung und der Entwicklung gewaltablehnender religiöser Brüderlichkeitsethik.

折原訳
とはいえ、このように祭司によって組織される、道徳における「奴隷叛乱」 ばかりでなく、伝統から解放された諸個人による、禁欲的、またとりわけ神秘的な、即人的救済追求が台頭してくると、それらはいずれも、すでに見たとおり 、それぞれの固有法則性にしたがって、同じ方向に進む。とはいえ、そのさい、つぎのような類型的な外的状況も、その方向を促進する方向に作用する。すなわち、(インドにおけるような) 普遍主義的な宗教性 [業教説や仏教]と、社会的文化の(相対的)統一 [カースト制]に比べて、まったく無意味にも見える、小規模な政治的権力形象の局地的で束の間の興亡や、正反対に、大規模な世界帝国における普遍的な平和化と権力闘争の全面的な圧殺、とりわけ (ローマ帝国における) 政治的支配の官僚制化、――つまり、戦士としての権力闘争と社会的な身分闘争に根ざす政治的また社会的な利害関心から、その基盤を根こそぎ奪ってしまうような、こうした全ての動因が、反政治的な現世拒否と、権力を拒否する宗教的同胞倫理の展開という同一の方向に、きわめて顕著な作用をおよぼすのである。

丸山訳
しかしながら、このような祭司によって組織された道徳における「奴隷反乱[1]」だけではなく、禁欲的でありまた取り分け神秘的な個々人の個人的な救済への希求の成長の全てもまた、既に見て来たように[2]、伝統から解放された者達を、自律性によって、同じ方向に導く。しかし典型的な外的な諸状況もまたそれを強化する方向に働く。例えば普遍的な信仰と(相対的に)社会的な統一文化(インドのように)に対しての、個々のそして極めて短期しか続かない権力形態の無意味に見える変遷と同様に、それとは丁度逆にまた、大世界帝国においての、権力を巡る全ての闘争の普遍的な平定と根絶もその例であり、そして特に政治的支配の官僚制化(ローマ帝国のように)もそうであり、従って政治的・社会的な、戦士による権力闘争と社会的な地位を巡る闘争に結び付けられた利害の根底を揺るがす、全ての契機は、反政治的な現世拒絶と暴力を拒否する宗教的な兄弟愛倫理の発展と同じ方向にて、非常に強く作用するのである。

[1] 以前も登場しているが、ニーチェが「道徳の系譜」の中で、ルサンチマンの感情により、現世での強者の道徳を「悪」として価値観をひっくり返すことの形容。

[2] 本翻訳のP.281他。

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