ある意味致命的な誤訳。折原訳も創文社訳もLeidenschaftを「激情」と訳していますが、まったくの的外れ。ここで言っているのは肉欲を中心とする極めて俗な人間の情欲のことです。ペラギウスはそうした情欲をコントロール出来る道徳的な人だったので、自由意志による行いの結果としての救いを主張し、その反対に「告白」を読めば分かりますが、生涯肉欲をコントロールするのに苦労したアウグスティヌスは、自力ではなく恩寵による救済を主張します。性格が激しいか穏やかか、という対比では全くありません。残念ながら創文社訳の訳者も折原センセも「告白」を読んでいないのでしょう。
それから訳注に書きましたけど、ムハンマドが5人の妻を持ったということだけから、アウグスティヌスと同様に情欲のコントロールが出来なかったと決めつけるのはかなり露骨なオリエンタリズムです。
原文
Leidenschaftslose, ernst sittliche Naturen wie Pelagius konnten an die Zulänglichkeit der eigenen Werke glauben. Die Prädestination ist unter den Propheten der Glaube von Menschen, die entweder, wie Calvin und Muhammed, ein rationaler religiöser Machttrieb übermächtig beseelt: die Sicherheit der eigenen, weniger aus persönlicher Fleckenlosigkeit als aus der Situation der Welt und aus Gottes Willen folgenden Mission, oder die, wie Augustinus und ebenfalls wieder Muhammed, ungeheure Leidenschaften zu bändigen hatten und in dem Gefühle lebten, daß dies, soweit überhaupt, nur durch eine außer ihnen und über ihnen waltende Macht gelungen sei.
折原訳
生来激情を欠き、生真面目に道義的な、ペラギウス のような人は、自力で救済に到達できると信ずることができた。それに対して、予定は、預言者の間でも、つぎのような人々が信仰するところとなる。すなわち、一方ではカルヴァン やムハンマドのように、元来、合理的な宗教的権力衝動がまさっていて、これに鼓舞され、個人として非の打ちどころがないことよりもむしろ、世界の状況と神の意思から生ずる結果として、自分の使命を確信して生きるような人々である。あるいは、他方、アウグスティヌスやこれまたふたたびムハンマドのように、途轍もない激情の主で、なんとか抑制できるとすれば、もっぱら自分の外にあって自分を圧倒する力に頼るほかはない、という感情に生きた人々である。
丸山訳
情欲に溺れることがなく、真摯で道徳的な性向を持ったペラギウス[1]のような人は、自分自身の業(わざ)が救いには十分であると信ずることが出来た。神による救いの既定ということは、預言者の間では、次のような人々が信ずるものであった。その人々とは、あるいはカルヴァンやムハンマドのように、ある合理的な宗教的な権力欲を生まれつき吹き込まれている者であり:自分自身の確信を、個人的に欠点が無いということは重視せず、現世の状況と神の意志から出て来る使命として持つ人であるか、あるいはアウグスティヌス[2]とまさに再度ムハンマド[3] のように、非常に強い情欲を抑制しなければならず、そして次のような思いに生きた人である。つまりこうした情欲は、一般にただその者達の外側にあって、その者達を支配するような力によってのみ制御することが出来るということである。
[1] Pelagius, 354~420年または440年、初期キリスト教の神学者。道徳的に貞潔な生活を贈り、救いは人が自由意志によって良い行いをすることによって達成されるというペラギウス主義を唱え、原罪と恩寵による救いを重視するアウグスティヌスから強く批判され、結局418年のカルタゴでの公会議で異端とされた。
[2] 「告白」を読めば分かるが、生涯を通じてアウグスティヌスは肉欲から自由になることが出来ず、苦悩していた。アウグスティヌスにとってはペラギウスのように道徳的な行いで救いに至るという考えはそのことから受け入れられなかった。
[3] ムハンマドの場合、アウグスティヌスのように生涯肉欲に捕らわれていたかは不明であるが、生涯で5人の妻を持った、という事実だけでおそらくはヴェーバーがアウグスティヌスと同列に扱っている。ムハンマドは15歳年上の最初の妻が死ぬまでは一夫一妻を守っているのでアウグスティヌスと同じと描写するのはきわめて乱暴であり、一種のオリエンタリズムと考えられる。